【卒論】ジュールヴェルヌが後の世の中に与えた影響

ジュール・ヴェルヌ
私は大学時代、フランス文学専攻でした。そこで4年間研究テーマとして温めてきたジュール・ヴェルヌへの思いを卒業論文として提出しました。

以前はnoteで公開していましたがわざわざページを分ける必要がないので
パープルトークに統一しておきます。

研究のためにフランスに行きました!

【元仏文】卒論のテーマにしていたジュール・ヴェルヌとの出会い
どうもボグボグです!こう晴れない日が続くと気が滅入ってきますよね…でも土砂降りでも潜水艦に乗っちゃえば分からないのかもと考えていますそこで(?)今回からぼちぼち熱く語ることになるであろうシリーズ「ジュール・ヴェルヌ」を始めようと思...
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ジュール・ヴェルヌが 後の世の中に与えた影響

はじめに

 はじめに私がジュール・ヴェルヌに興味を持ったきっかけを説明したい。私はフランス文学専攻に入学するにあたってフランス文学を読んでおこうと考えた。そんな折、好きなテーマパークである東京ディズニーシーの「ミステリアスアイランド」というエリアがフランス人作家のヴェルヌの小説を元に作られたということを知り、『海底二万里』を読んだことがきっかけである。海の中の光景が目に浮かぶような想像を掻き立てる物語に心を惹かれて他の作品、作者自身とより多くのことを研究したいと思いテーマに設定した。1年次には「フランス文学専攻教育研究振興基金」の助成の元、ヴェルヌの生誕地ナントと終焉の街アミアン、そして活躍の舞台パリを巡る研究渡航の機会を得た。現地での研究からヴェルヌが後の世の中に与えた影響は多大なものがあると考え、追研究をすることにした。

第1章 ジュール・ヴェルヌの一生と制作

原点の地 ナント

 ジュール・ヴェルヌは1828年にペイ・ドゥ・ラ・ロワール地方のナントに生まれる。この地に生を受けたことが後の作品に多大な影響を与えた事実はヴェルヌ本人も認めるところである。*1  

 十八世紀を通じて、ナントはル・アーヴルに次ぐフランス有数の港であった。砂糖、異国産の木材、米、カカオ、コーヒーの交易によって富を享受した。フェドー島はロワール河の小さな川中島でナントの中心部にあって、港湾施設が建ち並ぶフォス河岸に面している。ここには、裕福なブルジョワたちが建てた、何層もある壮麗な個人宅が軒を連ねる。数々のロビンソン変形譚や海洋小説を書いた作者の生まれた場所が他でもない島であったという事実は、後世の伝記作家たちを喜ばせずにはいなかった。ヴェルヌ自身、自身の天職や成功の背景として、芸術や文学に関心を抱く家族の存在といった他の諸要素を差し置いて、この事実を重く見ている。毎日のように船乗りたちとすれ違う中で、少年の心に旅への好奇心と遠方への郷愁が呼び覚まされた。

 このフェドー島は1946年に完全に河が埋め立てられ島ではなくなってしまった。オリヴィエ=ド=クリッソン通り4番地の建物の正面にはジュール・ヴェルヌが1828年2月8日に生を受けたことを記念するプレートが設置されている。私もこのプレートを目当てに元フェドー島を訪れ、ヴェルヌ家がいかにナントの中心に位置していたのかを感じた。街の中心に家があるということは当然ながら裕福な家庭であったことを意味している。父のピエールは法曹界に身を捧げてきた一族の出で自身もパリで法学を修めた後、ナントに移り住んだ。彼の仕事によって一家は不自由のない生活を送れていた。母のソフィは三世代にわたって船主として貿易に従事し、旅の経験が豊富な一族の出だった。 土地柄、家族柄によって幼い頃からジュールにとって海や船は非常に身近なものであった。ヴェルヌ夫妻は、別荘をシャントネー=シュル=ロワールに持っていた。*2  ここは、今ではナント市の一部になっている。ジュールにとって、それは初航海の地であった。「私の寝室からは、ロワール川が二里か三里にわたって流れているのが見えた。その両脇の平原は、冬には増水で水浸しになるのだった。確かに夏には水嵩が減ってしまい、川床から美しい黄色の砂洲が出現し、まさに移ろいやすい小嶋からなる群島そのものだった!その間の狭い水路を船は難渋しながら進んでいた。航海に出たい欲求に私は取り憑かれていた。様々な航海用語をすでに知っていたし、船の操作も理解していたから、フェニモア・クーパーの海洋小説でそれらが描かれてもちゃんとのみこめた。小さい望遠鏡のレンズに目を押し当てて、私は、船が方向転換しようとして、ジブを揚げ、スパンカーをぴんと張り、まず後の、それから前の帆の向きを変えるのを仔細に眺めたものだった」このようにヴェルヌ自身が書き残している ことからナントに生を受けたことが作家の将来に影響を与えたことは揺るぎようがないことである。だからこそこの逸話は時代を超えても議論の的であり続けているのだ。*3     

 ジュール・ヴェルヌ少年が航海と遠方のエキゾチックな国々に誘惑され、家庭からの遁走を図って非合法的に出港間際の船に忍び込む、などというようなことは実際にあったのだろうか。1928年に伝記作者マルグリット・アロット・ド・ラ・フュイ*4  はそのように語っており、彼女によれば、問題の事件は1839年に起きたという。従姉のカロリーヌのために珊瑚の首飾りを持ち帰るべく、インドに向かうコラリー号で密航しようとした年若い脱走者をめぐって、マルグリットはとても本当とは思われない細部を並べ立てて話を潤色している。実際問題として、ブルジョワ階級の子弟が両親の監視の目を逃れ、若い見習い水夫と入れ替わることができた。しかし「心配した父親に追いつかれたのは、船が沖に出る直前だった」とはおよそありえそうにない。しかしながらジャーナリストのポール・ウデルにより1909年に発表された素描的伝記の中に含まれているので密航の逸話の元となる事実があったのである。年月が経つにつれて、それが変質していったのである。海運関係の古文書が今後調査されれば、コラリー号がナントに立ち寄った事実が実証されるかもしれない。だが、マルグリットが提示しているディテールは、ジュールが父上から散々殴られた後で母親に言ったとされる次の台詞共々、空想の王国に送り返さねばなるまい。「ぼくはもう夢の中でしか旅をしません」。ジュール・ヴェルヌがこの事件について『青少年時代の思い出』でなにも語っていない事実そのものは、それが現実の事件ではないという結論には必ずしも結びつかない。そんな話を書いたら、「家庭に背を向けて世界をめぐるように少年たちを唆している」という非難に曝されかねなかっただろうから。『ジュール・ヴェルヌ伝』の著者であるフォルカー・デースはこのエピソードを史実として受け入れることを拒絶する立場を示している。

 私もマルグリットの語りにはあまりにも不自然で脚色なしではありえない点が多いことから元となる事実があったにしろ、この事件を鵜呑みに信用することができるとは言えない。だが「ぼくはもう夢の中でしか旅をしません」という台詞は多くの読者が実際に言っているかもしれない、言っていたとしたら面白いと思わせるだけのヴェルヌの理想像に近い表現であることは頷ける。

*1 フォルカー・デース『ジュール・ヴェルヌ伝』石橋正孝訳、水声社、2014、pp. 16~21

*2 フィリップ・ド・ラ・コタルディエール、ジャン=ポール・ドキス監修『ジュール・ヴェルヌの世紀:科学・冒険・<<驚異の旅>>』新島進、石橋正孝訳、東洋書林、2009、pp. 12~13

*3 フォルカー・デース『ジュール・ヴェルヌ伝』石橋正孝訳、水声社、2014、pp. 29~32

*4 マルグリット・アロット・ド・ラ・フュイはヴェルヌの母方の子孫と縁続きがあり、その記述には多くの美化・創作が含まれているとされている。

パリでの生活

 ヴェルヌの創作の原点は詩であった。その後父に倣ってパリに法学を学びに行くが本人の興味はもっぱら演劇や文学にばかり向いていた。ヴェルヌは初めから『海底二万里』のようなロビンソンものを書いていたわけではない。 初期の彼が夢見たのは劇作家としての成功である。1848年11月の終わり、パリに落ち着いたばかりのヴェルヌの元に、伯父のシャトーブールとオーギュスト・アロットが会いに来る。*5  彼らは甥を劇場や文学サロンに連れて行った。ここからヴェルヌは文学サロンに足繁く通うことになる。しかし当時、戯曲の上演に対する権力の厳しい締め付けが存在していたのだ。ナポレンの3つの政令により新規の劇場開設には国家の承認が必要となり、認可が下りた各劇場に特定のジャンルを割り当てた。さらに劇場の数を制限し、国家の助成を受ける4つの劇場と助成を受けない4つの二次的劇場に限定された。

  新参者であるジュール・ヴェルヌの史劇が上演の機会を得る可能性は、1846年から翌年にかけてアレクサンドル・デュマが建てた歴史劇場を除いて、まったくありえなかったのである。大デュマは、若い作家たちに気前がいいことで知られており、ジュール・ヴェルヌ本人によれば、「手相術」のスポークスマンであるシュヴァリエ・ダルパンティニーおよび小デュマの紹介で大デュマと知り合ったと言う。小デュマが1895年に没するまでの間、彼とジュールの間に続いた友情についてはいささかの疑念の余地もない。小説『椿姫』の成功で、それまで偉大すぎる父親の陰に隠れていたデュマ・フィスが一躍文名を上げたのは、1848年のことだった。 

 二人の友人の共作は、大仕掛けなメロドラマではなく、ささやかな「前座劇」、一幕物の韻文劇『折られた麦藁』を生み出す。1850年6月12日および13日の夜、女優ペルソンのための特別上演に際して、『折られた麦藁』が上演された。三作計四幕の芝居、シャンソン、その他の幕間の出し物に混じって上演されたのである。これほど雑多な演目に紛れていたとあっては、真夜中に演じられたこの喜劇が批評家たちの目にはほとんど止まらず、続く数日の間に上演されたもっと重要な劇に対する前座にしかならなかったとしても驚くに値しない。

 年老いた夫に飽き飽きし、青春の恋の相手である従兄に未練を抱く美しい若妻、アンリエットをめぐるこの戯曲は、かつての観客にとってはそれなりに興味に満ちていた。最後に、嫉妬した夫は賭けに敗れ、引っ越しを決めることで妻とその元恋人の再会をお膳立てしてしまう。

 その後の<<驚異の旅>>ではもっとも取り上げることのない恋愛がここではテーマとなっていることはいかにヴェルヌが戯曲の王道に忠実に従って書き上げたのかを示している。『折られた麦藁』は、6月25日までに15回、そして8月10日に最後の一回が上演された。デュマが何回目かの破産をして劇場を閉め、ブリュッセルに逃亡せざるをえなくなったため、同じ劇場で再演されることはなかった。しかしジムナーズ座で二回、1853年と57年の間に45回、1871年から翌年にかけてさらに45回の再演があった。ヴェルヌと小デュマは合計8000フランの利益を分け合った。このように劇作家としての才能も持ち合わせていたことは確かである。

 その後ヴェルヌは父の事務所を継ぐ提案を断り、リリック座の秘書となる。法界よりも演劇界を優先させるという明確な意思が感じられるが劇場がすぐに買収される憂き目に遭い3年ほどで離れることになる。自身の創作も続けていたが大きな成功を収めることはなかった。そのためヴェルヌの仕事は「中間仲買人」の比重が重くなっていく。仲買人の代理人の資格を有する有給の仲買人で、自身の顧客から受けた株の売買注文を雇い主に伝えるのがその仕事であった。*6 

 金融取引所での仕事が中心となっていた数年間、ヴェルヌは最終的な運命に近づきつつあった。彼には想像力の蓄えはたっぷりあったとしても、長編小説を書いた経験は不足していた。そして観光の経験もあまりなかった。後年、ジャーナリストのジャン=ベルナールに宛てた手紙の中で、当人が認めている通りである。「二十歳の時、私の理想は旅行をすることでした。この理想は碌に叶えられなかったので、空想の中で旅を始めたのです」。

*5 フォルカー・デース『ジュール・ヴェルヌ伝』石橋正孝訳、水声社、2014、p. 76

*6 フォルカー・デース『ジュール・ヴェルヌ伝』石橋正孝訳、水声社、2014、p. 148

ついに理想が叶う

 1859年夏、初めて国境を越える機会が、しかも、彼をことのほか喜ばせたことには、ただで国境を越える機会がめぐってきた。友人のアリスティッド・イニャールの兄で、ナントの船主であったアルフレッドがリヴァプール行ハンブルク号の無料乗船資格を二人の友人に提供してくれたのだ。「ぼくたちはまずリヴァプールに行き、それからグラスゴー、次いでエディンバラに行きます。途轍もなく快適になるでしょうし、その魅力は安さに匹敵することでしょう。おまけに、ぼくは旅行熱にかかっていて、エソムへの1日旅行のついでに、ランスまで足を伸ばし、素晴らしい大聖堂を隅々まで見て回りました。」と父に書いている。*7  ハンブルク号がなかなか到着しない幸先の悪い旅は『イギリスとスコットランドへの旅』という物語になった。『イギリスとスコットランドへの旅』はジュール・ヴェルヌが完成させた最初の長編小説である。ヴェルヌはこの草稿を亡命から帰国したばかりのエッツェルの元に持ち込んだ。そしてそれは容赦なく拒絶されている。ここからヴェルヌとエッツェルの関係が始まる。*8 

 エッツェルは旧友のジャン・マセの1864年3月20日、隔週誌『教育と娯楽誌』第一号を刊行する。マセの構想から20年、ついに計画は実現した。『教育と娯楽誌』は1906年まで刊行され、ヴェルヌはもちろん、道徳的な、または啓蒙的な短編小説、様々な著者による短い戯曲を読者に提供し続けたのである。1862年10月23日に結ばれた最初の契約は、2000部の初刷について500フラン、それ以降の増刷について同じ割合の印税を著者に保証しているにすぎない。『気球に乗って五週間』は劇的にヒットしたわけではなく、刊行初年度に3000部、翌年以降は毎年平均して2000部ずつ売れ、1905年にヴェルヌが死んだ時には、無敵の『八十日間世界一周』に続く売上第二位の76000部のロングセラーであった。 エッツェルの再三にわたる拒否や要求によりヴェルヌの草稿はほとんど形を変えてしまうがエッツェルの影響がなければ、<<驚異の旅>>が誕生することはなかったであろうし、彼の介入がなければ、ヴェルヌの小説は別の様相を呈していただろう。しかし、現に完成した姿において、そして150年にわたって読者を魅了してきたのは、性格もイデオロギーもこれ以上になく異なる二人の男の間の共同作業の結果なのである。 

*7 フォルカー・デース『ジュール・ヴェルヌ伝』石橋正孝訳、水声社、2014、p. 162

*8 フォルカー・デース『ジュール・ヴェルヌ伝』石橋正孝訳、水声社、2014、p. 174

ヴェルヌの「レシピ」

 『気球に乗って五週間』においてヴェルヌは、彼の小説の「レシピ」をすでに見出し、利用し尽くしている。それらはこの世を去るまでに様々に変化を加えられているものの、幾つかの例外を除き、本質的には変わらない。その「レシピ」は以下の通りである。*9

・ フラッシュバックやサブプロットをほとんど含まず、あるいは、それらをなしですませる直線的なプロット。
・ 物語に時折皮肉を交えてコメントし、主人公たちを嘲ることすらある全知の語り手。ヴェルヌの語りの欠点は、語り手のこの視点が終始一貫して維持されず、別のタイプの言説を混入させることである。
・ 必要最低限の人数に絞り込まれた登場人物たち。彼らは物語における機能、国籍、社会的地位に応じた、確定された役回りを演じる。
・ 巧みに作り込まれたサスペンスによって、読者は思いがけない結末あるいはどんでん返しに導かれ、それらはしばしば自然災害がもたらす混乱によって強められ、お決まりの「ハッピーエンド」が相対化される。
・ 自然に関わる、体系的な象徴主義。天変地異、嵐、動物や海の氾濫、火山の噴火の描写が人間の支配的地位を相対化し、完膚なきまでに嘲弄する。
・ 最後に、科学的資料を巧みに使いこなす腕前。ヴェルヌにとって科学的資料は想像力のための跳躍台となっており、リアリティを得るために使用されている。しかし、効果の疑わしい、純然たる教育目的の列挙から、韻律的に彫琢された芸術的条りに至るまで、美学的には玉石混合である。

 またこれら以外にも間テクスト的・遊戯的目配せとしては、ヴェルヌが終生細心の注意を怠らなかったオノマトペによるものがある。登場人物の名前が、モデルとなった実在人物のそれを暗示している場合には、綴り変えによって変形され、複数の解釈を可能にしている。コンセイユ(『海底二万里』のアロナクス教授の従僕)は潜水艇を作った同姓の発明家を『グラント船長の子供たち』に登場する地理学者パガネルはある歴史家を連想させ、アルダンはナダールを思い出させる。演劇の伝統を血肉化した著者は「雄弁な」姓を好んで用いている。ネモはラテン語で「誰でもない人」、『オクス博士の酔狂』の警視パソフはドイツ語で「用心せよ」。また、音の響きによってある種のステレオタイプを想起させようとしている。迂闊な学者は、複雑で滑稽な名前を冠され(『緑の光線』のアリストビュリュス・ウルシクロス)、肯定的な技師はその名の平凡さが際立つ(『神秘の島』のサイラス・スミス)。頼りになる右腕的存在の名前は単音節に還元される(『海底二万里』のネッド・ランド、『地底旅行』のハンス)。 *10
 職業作家として生活を続けるうちにジュール・ヴェルヌは執筆の手順の儀式化を推し進め、その結果、契約で決められた巻数を容易にクリアし、1885年前後からは、書き溜めが生じるようになって、それらは決まりきったパターンを露呈している場合もある。だが<<驚異の旅>>を構成する約60編の作品の中には、コンセプトの画一性にもかかわらず、余計な作品は1編もなく、どれを取ってもそれなりに存在意義のある新しい要素をもたらし、全体の中で独自の位置を占めている。作品の質がまちまちであるのは否めず、最後の20年間に書かれた小説は、連作の初期作品の魅力には遠く及ばない場合がある。機知のひらめき、ユーモア、アイロニーが徐々に後退し、平板で冗長な決まり文句、繰り返しが多くなっていく。著者自身、そのことを痛々しいまでに自覚していた。ヴェルヌは、家族内の問題や、人生に対する幻滅、文芸批評家たちに見向きもされないという失意から逃避すべく、執筆に没頭した。「仕事は生きる上で必要不可欠となっています。働いていなければ生きている気がしません」。 *11

*9 フォルカー・デース『ジュール・ヴェルヌ伝』石橋正孝訳、水声社、2014、pp. 246~247

*10 フォルカー・デース『ジュール・ヴェルヌ伝』石橋正孝訳、水声社、2014、pp. 248~249

*11 フォルカー・デース『ジュール・ヴェルヌ伝』石橋正孝訳、水声社、2014、p. 257

作家の最後

 ジュール・ヴェルヌが1903年夏に執筆を止めた時、着手された最後の作品である『調査旅行』は、その半世紀前の試作がそうであったように、未完に終わった。『気球に乗って五週間』をもってアフリカから始まった<<驚異の旅>>は、アフリカでその円環を閉じたのであった。未完というこの開かれた終わり以上にこの連作の精神にふさわしい終わり方が、完成された作品によって可能であったとは思われない。 *12 

 1871年7月、彼は家族とアミアンに居を構えることを決意した。町の南にあって、2つの駅を結ぶ遊歩道であるギュイヤンクール大通りの23番地が新居だった。彼は以後、このブルジョワ的な地区を離れることはなかった。「妻の希望に従って、アミアンに住むことにしました。賢明な、洗礼された、気質の穏やかな町です。人々は温かく、教養があります。パリにも近く、その反映が感じられますが、堪えがたい騒音と不毛な騒動は伝わってきません」。この引っ越しの動機は、なによりもオノリーヌの両親の健康問題だった。1871年7月21日にオノリーヌの母が亡くなり、父は一人取り残されてしまった。*13

  ジュール・ヴェルヌは「SFの父」ないし「未来を発明した男」などと呼ばれ、多くの人々に天真爛漫な科学主義を連想させる人物なのだ。逆説的なことに、こうした褒め言葉は、それがいかに善意に発したものであろうとも、根本的な間違いに立脚している。反論の余地のない事実として、以下の点を力説しておくべきだろう。ジュール・ヴェルヌは技術者でもなければ、学者でもなく、月世界旅行も潜水艦も発明していない。彼は小説家であり、彼が書いた娯楽的フィクションは、長い文学的伝統に根差し、同時代におけるテクノロジーの発展に呼応していた。ヴェルヌが科学の最新の成果を予言的に先取りしていたなどと主張できるのは、同時代のアクチュアルな議論を知らない者だけである。そうした議論は専門家の仲間内ないだけで交わされていたわけではなく、大衆向けの新聞や雑誌でも繰り広げられ、その成果は、万国博覧会などにおいて、大々的に展示されていたのである。*14

  月世界旅行や地球の中心への旅は、ヴェルヌ以前にも多くの文学作品の主題になっているが、それらの作品の作者たちは、この種のモチーフに特有の空間的・時間的距離を濫用し、新しい社会システムを提示したり、ユートピア的国家像を描き出している。絶対主義と検閲が支配する同時代を批判できさえすれば、旅の目的地や移動手段は、彼らにとってはどうでもいい。エキゾチックな飾りでしかなかった要素である移動手段や道中が<<驚異の旅>>の主題となり、読者の注意を独占することになる。ヴェルヌにおける旅の意味は、政治的寓意を離れ、それが実現されるための科学的条件を中心とし、物質的な問題をいかに実用的に統御するかに終始しているかのようだ。実際には、未知の征服にいかなる目的があるのかという問いをジュール・ヴェルヌが忘れたことはなく、時空を制覇することのイデオロギー的な含意をテーマに据えている。*15

*12 フォルカー・デース『ジュール・ヴェルヌ伝』石橋正孝訳、水声社、2014、p. 258

*13 フォルカー・デース『ジュール・ヴェルヌ伝』石橋正孝訳、水声社、2014、p. 262

*14 フォルカー・デース『ジュール・ヴェルヌ伝』石橋正孝訳、水声社、2014、p. 313

*15 フォルカー・デース『ジュール・ヴェルヌ伝』石橋正孝訳、水声社、2014、p. 314

第2章 ジュール・ヴェルヌの作品

ヴェルヌの著作の多くは<<驚異の旅>>というシリーズに属している。その中でも特に人気を集めてきた作品を取り上げ、そこに見られるヴェルヌの特徴を考察したい。また私が個々の作品の魅力を永遠のものにしたと考えているヴェルヌの作品の締め方を比較していく。
 

『八十日間世界一周』

 1872年のロンドン、謎の金持ちフィリアス・フォッグは仲間との賭けで八十日間で世界を一周することになる。フォッグは全財産の4万ポンドのうち2万ポンドを賭け、残りの2万ポンドを現金で鞄に詰めて旅に出る。当時は「日の沈まぬ国」といわれた大英帝国の全盛期。ロンドンから東に出発したフォッグはエジプトからインド、そして香港まで、旅程の前半はイギリス領を通っていく。途中唯一ちょっと毛色が違う国に立ち寄るが、それが開国したばかりの日本だった。*16  定期航路が海を、鉄道網が陸をカヴァーして世界は以前と比べれば格段に小さくなったと感じられていた。

 もちろん、フォッグの旅は平穏無事にはすまない。ちょうど同じ頃銀行から5万5千ポンド盗んだ強盗がいて、探偵フィックスは、フォッグこそこの強盗であると確信して追跡する。インドでは、年老いた夫を若くして亡くした女性アウダが生きたまま火葬されそうになっているところに行き会い、彼女を救出する。アメリカでは、汽車がインディアンに襲われる。大西洋を横断する快速蒸気船に乗り遅れ、代わりに乗り込んだ船は石炭が足りなくなり、船体の木の部品を燃やして進む。ようやく80日目にリヴァプールに到着したフォッグは、フィックスに逮捕されてしまい、万事休す。人違いが判明してロンドンに向かったものの、着いたのは期限切れの5分後。

 失意のフォッグにアウダが結婚を申し込み、それを受け入れたフォッグは、パスパルトゥーを牧師の家に送り出す。ここで驚くべき事実が判明する。東に向かって世界を一周したフォッグは、帰ってみるとロンドンより1日先に進んでいたのである。当時はまだ日付変更線は存在しなかった。フォッグは、時差に合わせて時計の針を進めるだけで日付は調整していなかったのだ。最後の最後でフォッグは改革クラブに約束の時間にたどり着くことができ、賭けに勝利したのだった。全財産を賭けた高速の旅は前代未聞の展開が満載で当時の読者を大いに喜ばせたことだろう。というのもヴェルヌはスエズ運河の開通(1869年11月17日)により、八十日間で世界一周ができるという記事を『ル・マガザン・ピトレスク』(1870年4月号)に見出したことからこの小説を着想したと伝えられている。*17  つまり当時の技術、輸送手段を駆使すれば不可能ではない挑戦であるためにこのフォッグの挑戦が作り話じみていないのである。世間はまだ多くの不確定要素—資金や危険性、成功する意義—があったためその先駆者を待っていたのかもしれない。それが本の中であれば好奇の目を持って迎えられただろう。

 『ジュール・ヴェルヌの世紀』によればフィリアス・フォッグを通して、ヴェルヌは時間の新しいコンセプトを打ち立てた。それ以前には、旅行とは発見であった。未知の土地を発見し、通商関係を樹立するために、時間が費やされるのは当然だった。フィリアス・フォッグと共に、時間は加速しただけではなく、時間との関係そのものが逆転した。時計との競争が日常の振る舞いの一部をなす時代にわれわれは足を踏み入れたのだ。正確さが新たな規範となる。あらゆるところに行くだけではもはや十分とはいえない。今や、できるだけ早く行かなければならないのである。*18   確かにヴェルヌの作品や数多のロビンソンものの物語では旅先でどんな冒険をするかが物語のメインであり、その旅路をいかに急ぐか、どのような手段を駆使して目的地にたどり着くかに照準が当てられることはなかった。その点から新しいコンセプトを打ち立てたことは間違いない。各地を巡るスピード感と飽きさせない展開がその後の舞台化での成功にも結びついている。ヴェルヌは世界中を人々が行き交う時代を思い描いていたのかもしれない。

 『八十日間世界一周』においてフォッグの陸路を大いに手伝った鉄道はまさに目覚ましい発展を遂げてきた最新の乗り物であった。蒸気機関車は、1803年にイギリスの技師リチャード・トレビシックによって発明され、乗客を運ぶための最初の商用鉄道は、1829年、リヴァプール〜マンチェスター間で運行された。数年のあいだに、ジョージ・スティーブンソン指揮のもと、鉄道に必要不可欠なシステムがすべて揃っていく。レール、信号、橋、トンネル、駅、水と石炭の補給装置などである。鉄道の発展はたちまち抑えがたい勢いになる。フランスでは、1832年にリヨン〜サン=テティエンヌ線、そして1837年にパリ〜サンジェルマン=アン=レ線が開通した。鉄道によって旅行は時間が短縮され、低層階級の人々にも手の届くものになった。こうして地方から都市への人口の大移動と、技術、思想の伝搬が行われた。ヴェルヌの<<驚異の旅>>でも、蒸気船と並んで、鉄道が大きな位置を占めている。『八十日間世界一周』におけるフィリアス・フォッグの波乱に満ちた旅にとって、蒸気船と汽車はなくてはならないものであった。*19

*16 慶應義塾大学教養研究センター『ジュール・ヴェルヌが描いた横浜:「八十日間世界一周」の世界』新島進編、2010、p. 24

*17 富田仁『ジュール・ヴェルヌと日本』花林書房、1984、p. 35

*18 フィリップ・ド・ラ・コタルディエール、ジャン=ポール・ドキス監修『ジュール・ヴェルヌの世紀:科学・冒険・<<驚異の旅>>』新島進、石橋正孝訳、東洋書林、2009、p. 144

*19 フィリップ・ド・ラ・コタルディエール、ジャン=ポール・ドキス監修『ジュール・ヴェルヌの世紀:科学・冒険・<<驚異の旅>>』新島進、石橋正孝訳、東洋書林、2009、p. 91

 

『海底二万里』

 世界中の海で謎の巨大生物による船の襲撃事件が多発する。海洋生物学者のアロナクス教授と助手のコンセイユは調査船に乗り込み、巨大生物を追うがそれは電気を動力とする潜水艦だった。潜水艦に襲われ、艦内に捕らわれの身となった一行は謎の天才発明家ネモ船長の二万里の海を渡る旅を目撃することになる。

 私は多くのヴェルヌの作品を読んできたがこれほど魅了されたものはなかった。個人的な見解としては海が現代においてもいまだに謎に包まれている部分が多いことが考えられる。<<驚異の旅>>の始まりが空だった*20 ことからヴェルヌにとっても重要なテーマであり、当時の世間の注目は空にあった。そのため人類にとって空の征服はヴェルヌの想像をはるかに超えるところにまで到達した。現代では空は飛行機の航路であり、さらに上をロケットや人工衛星や飛んでいる。気球はもはや主戦場を博物館に移しつつある。しかし海のほうでは人類の目も光も届かない深海が横たわっていて、謎の巨大生物が発見されていないだけで存在してもおかしくない。この考えができるうち、つまり世界中の海を隅々まで人類が探索するまでは人知れず潜航するノーチラス号が人々の頭をよぎるのである。
 『海底二万里』の主要登場人物は4人しかいない。しかしジュール・ヴェルヌは、科学の様々な側面を効果的に彼らに割り振り、対峙させている。まずコンセイユがいる。意味深長にも召使として導入されている彼は、目の前に現れる生物たちを体系的に分類するだけで満足し、偏執的かつやや子供っぽい学者のタイプを代表している。彼の対立項であり、批判的緩衝材としてネッド・ランドがいる。銛打ちの名人であるネッド・ランドにとって魚は食べれるかどうかの区別しかないのである。アロナクス教授はネモ船長の研究に深い興味を持っている。海の神秘を目の前にして少年のような純粋な好奇心を抱いている。また他の2人とは異なり、学者としての側面がよりノーチラス号を魅力的なものとして感じさせている。アロナクス教授の深海についての研究成果をネモ船長が知っていることからネモ船長も大変な研究者であり、そこがこの海中旅行を可能にした。
 『海底二万里』が世に出た時、ノーチラス号のように電気を動力とした潜水艦は存在しなかった。まさにヴェルヌの先見性が現れた一例である。潜水艦の発想は古くからあったが、技術上の困難な問題にぶつかっていた。1776年、アメリカの発明家デイヴィッド・ブッシュネルによる<タートル号>が先駆とされ、その後は、1800年、フルトンによって<ノーチラス号>がセーヌ川において試運転された。その後継の潜水艦は、ブルジョワとブランによる1853年の<プロンジュール号>で、圧縮空気で動くこの420トンの機械は自律的な運転がほとんどできなかった。ヴェルヌは1896年、電気を推力とする彼の<ノーチラス号>を登場させるが、これは1888年の、電気を動力とした初の潜水艦<ジムノット号>の実験に20年ばかり先立っている。そのすぐあと、ディーゼルエンジンと電気を組み合わせて使用することで、海底での航行の、とりわけその軍事利用の道が開かれることになる。*21 
 またエッツェルのフランスおよび諸外国における売上を気にかけた要求により当初の構想ではネモ船長は、家族を殺したロシアの官憲に復讐しようとしていたのだが、ロシアによるポーランド抑圧をそのような形で主題にすることは許されなかった。完成したヴァージョンにおいて、ネモの行動の動機は伏せられている。ヴェルヌがこの屈辱を甘受したのは、政治的なことを忌み嫌っていたからでもあるし、この解決策によって主人公のカリスマ性がさらに高まるとあっては、なおさらであった。*22

*20 『気球に乗って5週間』

*21 フィリップ・ド・ラ・コタルディエール、ジャン=ポール・ドキス監修『ジュール・ヴェルヌの世紀:科学・冒険・<<驚異の旅>>』新島進、石橋正孝訳、東洋書林、2009、p. 89

*22 フォルカー・デース『ジュール・ヴェルヌ伝』石橋正孝訳、水声社、2014、p. 194

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『地底旅行』

 先述のようにヴェルヌが持っていた時空を制覇することのイデオロギー、その実例が『地底旅行』に他ならない。エッツェルに要求された出版プログラムに則って読者のために地質学と鉱物学の講義がなされる一方で、自然を解読する可能性に相対的な疑念が表明されている。リーデンブロック教授が主張するように地球の中心が冷却しているのか、それとも甥のアクセルが支持する学説の通りに灼熱の状態にあるのか、という問題は、物語の最後まで解決されない。地球の内部には確かに巨大な空洞が存在しているものの、火山の噴火は中心の火の存在を示している。目的地である地球の中心に旅人たちがたどり着くことはなく、踏破すべき距離の40分の1までしか行けなかった以上、こういった問題は重要ではない。ジュール・ヴェルヌは、多様な理論を提示するに留め、想像力に必要な自由を自らに許したのである。*23

  上記の作品には技術の最先端の情報を取り入れ、近い将来実現するのではないかという物語を作り上げてきたヴェルヌだがその例に当てはまらない著作もある。『地底旅行』はルーン文字の暗号を頼りにリーデンブロック教授と甥のアクセルが地球の中心へ探検に行く話である。ハンブルクに住む鉱物学者のリーデンブロックがアイスランドのスネッフェルス山の火口から地球へと入っていく、その旅の過程ではレイキャヴィークを通り、ガイドのハンスと共に馬に乗りながら険しい道のりを進んでいく。ここまでは他の作品と同じように綿密に調べられた街の情景が描かれている。しかしアクセルが叔父を思いとどまらせるために理論を展開したように実際に地球の中心に地下空間はなく火山活動に助けられ、地上に帰還することも不可能である。そのためヴェルヌであっても完全なる空想の地底世界をひたすら旅するという構成は避けたのである。『地底旅行』の全45章のうち、地底世界に到着するまでに30章も割いている。*24

 物語の終盤にやっとたどり着いた地底世界にリーデンブロックは学者らしく名前を付けていく。そして広大なリーデンブロック海に筏を組んで挑戦する。電気と思われる発光現象で明るい空に雲が浮かんでいるというもう一つの地上がそこにはあった。海上で古代の爬虫類プレシオサウルスとイクチオサウルスの格闘を目撃し、嵐に遭い元いた場所に戻される過酷な旅をする。そのためこの空間の端まで調べることはできない。その後、陸地ではミイラ化した人骨、マストドンの群れを操る巨人までも目にする。

*23 フォルカー・デース『ジュール・ヴェルヌ伝』石橋正孝訳、水声社、2014、pp. 314~315

*24 ジュール・ヴェルヌ『地底旅行』高野優訳、光文社、2013

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第3章 H・G・ウェルズとの比較

 ジュール・ヴェルヌが「SFの父」と称される時に共に名前が挙がるイギリス人作家がいる。ハーバート・ジョージ・ウェルズ*25  はヴェルヌと活躍した時代、作品のテーマの近さから同じくくりとなっている。しかし私はウェルズの作品を読んだことがなかったので今回の研究に際して一読の必要性を感じた。

 『タイムマシン』は1895年に発表されたウェルズの代表作である。タイム・トラヴェラーが自ら発明したタイムマシンに乗り込み、80万年後の未来世界へ飛ぶ。そこで目にした人類の変わり果てた姿を見て衝撃を受ける。地上に住むエロイは知能や体力が衰えてしまっていて地下種族のモーロックの捕食対象となっていた。この2種類による原始的な階級社会が広がっていた。タイム・トラヴェラーはこの世界の謎に迫るとともにタイムマシンを取り戻し元の時代へ帰る方法を探る。 私はヴェルヌとの比較を念頭に読んでいたためか特に異なる点を見出すことができた。最も大きな違いは個々の登場人物の描写である。『タイムマシン』ではタイム・トラヴェラーが一人で時間を超えて冒険し、その経緯を仲間に語るという形式をとっている。そのためタイム・トラヴェラーの主観で物語が進むため、話を聞かされる人々の描写は乏しくその職業程度の情報しかない。また未来人のエロイ、モーロックは主観的な描写があるが動物との比喩や姿形の詳細については触れられないので頭で想像する未来人像はどうしてもぼんやりとしたものになるという印象を受けた。

そのひとりが、機械と僕のいる小さな芝生に真直ぐ通じる小路に姿を現わした。小柄な生物で——背は四フィートぐらいだろう——紫色の衣をつけ、腰のあたりに革のひもを巻いていた。足には、サンダルか長靴——どちらか区別はつかないが——そんなものを穿いていた。両脚はひざまでむきだしで、頭には何もかぶっていない。それでふと気がつくと、空気がとても暖かだった。
 その生物は、意外にも、やさしく美しい男性で、どうやら、信じられないほど、ひ弱らしい。赤みを帯びた頬が、結核患者の顔色を思い出させた——滅び行くものは美しきかな、という奴だ。                                                                              

 -H・G・ウェルズ『タイムマシン』石川年訳、角川文庫、2002、pp. 33~34

 この部分が未来世界での地上人エロイについての描写だが私には何とも物足りない説明に感じてならなかった。物語の当初、タイム・トラヴェラーはエロイと会話することができず、その後ウィーナという女性と親しくなる。その交流を通してエロイの言葉や生活を何となく感じ取り、理解していく。しかしそれはあくまでもタイム・トラヴェラーの感受性によるものであり、その世界の案内人は登場することなく、決定的な正解を与えられることがない。最後に時間旅行から帰還した時に未来で拾った花がポケットから出てくる仕掛けはヴェルヌと似たようなものを感じたがタイム・トラヴェラーが再び機械に乗り込み戻って来なかったという結末は完結を早まったかのように思えてならない。つまり物語のほとんどが未来世界に注ぎ込まれていて登場人物たちの時代はあまりうかがい知ることができないのである。
 一方、ヴェルヌの作品では細部までこれでもかと描写が書き込まれている上に物語の本筋と関係のないところまで生物や物質の分類、解説がなされている。

 大砲クラブの主要メンバー、会長バービケーン、エルフィストン少佐、書記のJ・T・マストンをはじめ多くの学者たちは何回も会合を開いて、弾丸の大きさとその構造、大砲の配置とその性能、使用される火薬の品質と量について討議した。その結果、次のように決定した。
一、 砲弾はアルミニウムの弾丸で、直径108インチ、外側の厚さ12インチ、重さは19250ポンド。
二、 大砲は砲身900フィートの鋳鉄製のコロンビヤード砲で、地面に直接、鋳型に流しこんでつくる。
三、 装填には40万ポンドの綿火薬を使用。それは弾丸の下で60億リットル入りのガス缶の働きをして、砲弾を容易に月に到達せしむるだろう。
 諸問題が解決したので、会長のバービケーンは技師マーチソンの援助のもとに、フロリダ州の北緯27度7分、西経5度7分の地を敷地に選んだ。                          

 -ジュール・ヴェルヌ『月世界へ行く』江口清訳、東京創元社、2005、p. 10

 おそらく先述の2つの引用を読むと『タイムマシン』のエロイの描写の方がより多くの文字を割いているにも関わらず、頭の中にイメージをすることが難しい。『月世界へ行く』の宇宙船とも言える砲弾は箇条書きを使い、正確な数字を出しているため一読しただけでその具体的な形状を想像することができる。またヴェルヌの作品では気球の空の旅の延長としての月世界旅行はあるがそこに宇宙人は登場せず、また時間旅行をすることもない。あくまでもあるかもしれないというリアリティを持っている点が大きく異なる印象を生み出していると思った。
 一方、ヴェルヌの文章と非常に似ていると感じた部分もある。タイム・トラヴェラーの様子についての描写である。

 僕は考えるのだが、あの時は誰もタイムマシンなんか、まともに信じちゃいなかった。というのは、タイム・トラヴェラーは頭が良すぎて信じられないような男のひとりだし、隅から隅まで見すかせない男なのだ。そのあけっぴろげな率直さのかげに、いつも何か不思議な考えや、思いがけないくふうを隠しているように思える人間だったからだ。                                                                                                  

-H・G・ウェルズ『タイムマシン』石川年訳、角川文庫、2002、p. 19
 この後もさらに他の人物を引き合いに出した上でさらにタイム・トラヴェラーの底知れぬ不気味さや利口さを念押ししている。この繰り返しの描写がヴェルヌとの共通点である。時間ではなく世界を高速で駆け抜けた旅人の紹介はこうだ。

 フィリアス・フォッグは革新クラブの会員であること、それだけだった。あるいはこのような不可解な紳士が由緒ある結社組織にはいっていることについて怪しむ人があるかもしれないが、そういう人は彼がベアリング兄弟銀行に当座預金があり、その紹介によって会員となっていることを知らないからだ。彼の振り出した小切手はかならず、きちんと遅滞なく、いつも彼の預金がある当座預金でおとされるので、それで確固とした「信用」があったのである。では、このフィリアス・フォッグは金持ちなのか?もちろんそうである。しかし、どうしてそのような財を得たのであろうかと言われると、もっとも事情に通じている者でも、その返答にこまって、フォッグ氏の人となりを知ろうとしてもどうしてもわからないというのが常だった。

-ジュール・ヴェルヌ『八十日間世界一周』江口清訳、角川書庫、2004、pp. 12~13

 この後もフィリアス・フォッグのことをひたすら説明していき、金持ちの紳士ながらその実情は謎に包まれているというキャラクター像を物語の序盤で確立させている。どちらも実在するのか、実現できるのかわからない旅をする主人公とあって高い能力と誰にも知れない不思議を持ち合わせている。
 SFの父と称される両者であるがその内容はかなり異なっていてウェルズの取り上げるテーマもタイムマシンや火星人、透明人間など現代においても定番のものが多く個人的な印象としてヴェルヌよりもSFという分野の王道であると感じた。一方でヴェルヌの作品がSFの一言では表しきれないジャンルを跨いだ要素を含んでいると思った。

*25 Wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/ハーバート・ジョージ・ウェルズ

第4章 ジュール・ヴェルヌと日本

日本との関係

 ジュール・ヴェルヌの作品を研究する上で必ず触れておきたいと常々考えていた問題が日本との関わりである。ヴェルヌの冒険において欠かすことのできない『八十日間世界一周』でフォッグ氏とパスパルトゥーは日本、それも横浜を訪れる。私はこの物語をどれほどの感動とともに読んだだろうか。生まれてこのかた横浜に住んでいる私にとって生前にフランスの作家が旅をしていた事実は決定的な運命を感じさせた。しかし当然ながら作家が横浜を旅したのは「夢の中」での話であり、実際には欧米人の日本を紹介する書物を参考にしていたと思われている。 『八十日間世界一周』では1872年時点の横浜が描かれている。ヴェルヌの場合、横浜は未踏の地であることで、あくまでも想像の世界の一場面であったはずである。すでに開港以来十年あまりの歳月が過ぎていることで、欧米人の横浜紹介も少なくなかった。ヴェルヌがそうした紹介の書物を利用して、横浜についての知識をえていたことは十分に考えられる。『ジュール・ヴェルヌと日本』の著者である富田氏はパリ国立図書館にて『フランス図書総合目録』を横浜開港の1859年以降からヴェルヌがこの小説を執筆する1872年までに刊行された日本に関する書物の調査を行っている。 

その結果、つぎのような人びとの著作を閲覧し、ヴェルヌが参考にした文献を探し出すことに努めた。アルフレッド・ルッサン『日本沿岸の遠征』(1865)、エドアール・フレシネ『日本、歴史と叙景、風俗、慣習、宗教』(1864)、『日本』(1864)、シャルル・ド・モンブラン『あるがままの日本』(1867)、ロドルフ・ランドー『日本周辺の旅』(1864)、エメ・アンベール「日本」(1867)『描かれた日本』(1870)などがそれである。横浜という特定の地に限る時、スイス人ロドルフ・ランドーとエメ・アンベールの著作は十分に検討されるに足るものである。まず、ロドルフ・ランドーの『日本周辺の旅』は、横浜についても概観的に叙述し、23ページをさいている。著者の1858年と1861年から1862年にかけての二度にわたる極東、とくに日本旅行の見聞録であり、『両世界評論』誌に発表したものをまとめた書物である。その第九章に横浜がとりあげられているのである。
 東経139度40分、北緯35度26分の間にある横浜は商業取引きにおいて重要性をもつ所であるが、1859年5月にはまだとるにたらない村だったと、ランドーは横浜開港の経緯を伝えたあと、この港町の説明に入っている。横浜の町は自由地区と日本人地区に分かれている。ヨーロッパ人地区は約250名の人口を数えるが、大部分はイギリス人である。家屋は西洋と日本の技法の奇妙な寄せ集めを表わしている。一般的にいえば、二階を一周するヴェランダをそなえ、白と黒の大きな瓦の屋根で覆われ、台風にも耐えられるほど頑丈に建てられた住みごこちのよい、広い、風通しのよい家屋である、というふうな紹介である。
 同じくスイス人であるエメ・アンベールの「日本」は一層注目される横浜紹介書である。1863年4月9日、スイスの首席全権として日本との修好通商条約締結のために長崎に来航したエメ・アンベール(1819〜1900)は同月27日に横浜に入港し、翌年2月6日、江戸で条約の調印を行った。やがて、アンベールは日本見聞録を「日本」と題して『世界一周』誌に寄稿した。のち、1870年『描かれた日本』と改題し、二巻本として刊行した。いずれも多くのイラストが入っている。

-富田仁『ジュール・ヴェルヌと日本』花林書房、1984、pp. 37~38

 この「日本」の中で紹介された文章と偶然とは断じにくいほどの類似した部分があることからヴェルヌはアンベールの「日本」を巧みに利用して『八十日間世界一周』に横浜を描き、日本と日本人を紹介している。

 ヴェルヌは日本の女性についても「婦人は目が細く、胸が薄く、当時の流行で歯を黒く染め、あまり美しいとはいえなかった」と書いている。これもアンベールの書物に負っている。アンベールはとくに日本女性が美しくはないと評価していないが、全体的印象として必ずしも美しいとは述べていないところにヴェルヌの“評価”が生まれたのかもしれない。ヴェルヌは日本の女性を評価したあとすぐ、日本の民族的な衣服である着物を優美に着こなしていることを伝えている。ここに原文を引用する。

 mais portant avec élégance le vêtement national, le 《Kirimon》, sorte de robe de chambre croisée d’une écharpe de soie, dont la large ceinture s’épanouissait derrière en un nœud extravagant, -que les modernes Parisiennes semblent avoir emprunté aux Japonaises.    

《Le Tour du monde en quatre-vingts jours》
 着物を“Kirimon”と表現している点はきわめて象徴的にアンベールの文章の借用を示している。 さらに富田氏はヴェルヌの”酒” Le Saki というかなり特殊な表現もアンベールの文章から見出せる表現だとしている。

それからパスパルトゥーは足をのばして、ひろい稲田のあるいなかへ行った。そこには花々が、名残りの色とにおいとをまき散らしていた。山茶花は潅木ではなく、ちゃんとした木で、まっかな花をつけていた。そして竹の囲いのなかには、桜の木や、梅の木や、りんごの木があって、日本人はそれらを、果実をとるためではなく、観賞用として栽培しているのだ。田畑には奇妙なかっこうをした案山子や、がらがら鳴る鳴子があって、雀や烏や鳩といった野鳥を防いでいた。大きな杉の木には大鷲がとまり、しだれ柳はその葉で、白鷺をかくしていた。そしていたるところに小鳥や家鴨や隼や野雁や鶴がいて、鶴は長寿と幸福の象徴として<殿さま扱い>にされていた。 

-ジュール・ヴェルヌ『八十日間世界一周』江口清訳、角川書庫、2004、p. 205
 このパスパルトゥーが見て回る日本的な風景の数々や日本人が鶴を長寿と幸福の象徴として考えているという指摘をアンベールの書物から孫引きしているのである。

日本でのジュール・ヴェルヌ

 ジュール・ヴェルヌの作品はどのようにして日本にやってきたのかという点は熱心な読者にとって放っておけない疑問となる。どのような訳者によってこの作家が日本に広められたのか、誰の功績なのか興味が湧いてくる。私はヴェルヌが世界中で翻訳されてきた作家であることは知っていた。しかし日本最初のフランス文学の翻訳がジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』であったとは思いもよらなかった。*26  川島忠之助訳『新説八十日間世界一周』がそれで、これを契機として日本にヴェルヌ・ブームが訪れた。明治11年6月、川島忠之助は自費で『新説八十日間世界一周』前篇を刊行した。この翻訳はフランス語原典からのフランス文学の最初の訳業として翻訳文学史上大きな意義をもつものとなっている。

 もっとも、すでにフランス関係の翻訳は、いくつか出ていた。明治4年8月、箕作麟祥がポンヌの『泰西勧善訓蒙』を、5年1月、仮名垣魯文が『倭国字西洋文庫』を、7年5月、小林謙吉が『西洋孝子 流別奇談』を、9年12月、河津祐之がミシュレの『仏国革命史』を刊行していたが、文学の原典訳はまだひとつもみられなかったのである。*27 『新説八十日間世界一周』は逐字訳の周密文体の翻訳であり、訳者がきわめて苦心して訳語を選びながら翻訳したこともあったので、かなりの人気を博した。その結果、後篇(明治13年6月)は自費で出版しないですむようになった。富田氏は当時、ヴェルヌの翻訳が歓迎された理由の一つとして小説に盛りこまれていた科学万能思想と功利思想をあげている。これらが近代国家として急速に発展していかなくてはならなかった当時の日本の社会ではきわめて魅力的なものに受けとめられたようである。つまり、ヴェルヌの小説には、新興国家・日本の姿を予想あるいは反映するものが盛りこまれているように思われたにちがいない。 川島忠之助は偶然な機会から『八十日間世界一周』の英訳本を入手し、「社会啓蒙」のためにこれを翻訳しようと思い立ったのである。川島忠之助はフランス語の原典に即して翻訳をしたが、その頃よくみられた余計な修飾を加えるような訳し方はせず、むしろ忠実な翻訳に終始していた。*28

*26 富田仁『ジュール・ヴェルヌと日本』花林書房、1984、p. 1

*27 富田仁『ジュール・ヴェルヌと日本』花林書房、1984、p. 7

*28 富田仁『ジュール・ヴェルヌと日本』花林書房、1984、p. 10

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参考文献

ジュール・ヴェルヌ『海底二万里 上・下巻』村松潔訳、新潮文庫、2012
ジュール・ヴェルヌ『八十日間世界一周』江口清訳、角川書庫、2004
ジュール・ヴェルヌ『月世界へ行く』江口清訳、東京創元社、2005

フィリップ・ド・ラ・コタルディエール、ジャン=ポール・ドキス監修『ジュール・ヴェルヌの世紀:科学・冒険・<<驚異の旅>>』新島進、石橋正孝訳、東洋書林、2009
フォルカー・デース『ジュール・ヴェルヌ伝』石橋正孝訳、水声社、2014
慶應義塾大学教養研究センター『ジュール・ヴェルヌが描いた横浜:「八十日間世界一周」の世界』新島進編、2010
富田仁『ジュール・ヴェルヌと日本』花林書房、1984

振り返り

以上が論文『ジュールヴェルヌが後の世の中に与えた影響』です。

当時、かなり駆け足で書いた記憶がありましたがこうして読み返してみると
後半は相当薄い内容になってしまっているのがよくわかります…

参考文献、引用の回数からもわかるようにヴェルヌの本は数が多くないので同じ本によるところがどうしても増えてしまいます。

二番煎じにならないような工夫を取り入れてみました(ウェルズとの比較など)が
独自で強烈な要素にまではなっていないかと思います。

またせっかくナント、アミアン、パリを巡る研究旅行へ行く機会があったにも関わらず
その時の経験を直接論文の本筋に活用できなかった点がとても悔しいです。

研究旅行の時のレポや写真は別記事で紹介するので乞うご期待!


ヴェルヌの研究は情報源が少なく難しいと思いますが
日本のヴェルニアンの参考になれば嬉しいです!

卒論を書く上で本当に参考文献にはお世話になりました。

というか参考文献からの引用がなければ論文として成立しなかったです。

 

そんな参考文献たちを少し紹介いたします。

『ジュール・ヴェルヌ伝』

 

通称・聖書。ヴェルヌの人となりや生活についてはほとんどこの本に教えてもらいました。よくこんなに調べられたなと思うほどの圧倒的な情報量です。ヴェルニアンは必ず一度は読んでおきたい名著で私はナントやアミアンの光景を思い出しながら、ヴェルヌの見た世界を妄想したものです。

 

『ジュール・ヴェルヌの世紀:科学・冒険・<<驚異の旅>>』

 
 
こちらはヴェルヌの生きた時代の科学技術や小説の設定と現実を比較した大百科。ヴェルヌが当時の最先端の知識を持っていたことがよくわかります。またこの本はめちゃくちゃイラストが多いので妄想が捗りまくりです。
 
 
『ジュール・ヴェルヌが描いた横浜:「八十日間世界一周」の世界』
 

 
 
個人的に刺さりまくりの一冊。『八十日間世界一周』で日本・横浜が登場することは有名ですがその横浜の部分をヴェルヌがどうやって書いたのかに迫ります。
実際に日本に来ていないヴェルヌがどんな街を想像していたのでしょうか。
 

最後に

 今の時代、飛行機が鉄道が船が絶え間なく動いていて、年々研究が進んでいます。ヴェルヌが見たナントの海の向こうに広がっていた世界とは異なるかもしれません。世界を80日もかけずに一周できてしまいます、火口から地球の中心にはいけないとわかっています。それでも知らない世界、景色に憧れてしまうのが人間なのかもしれません。そういった意味では『海底二万里』はまだ強い魅力をまとっていると思います。人類が現代の技術を持ってしても深海にはまだ謎が多く残っているのです。
 なんせ陸地より海が多い地球ですからその広大な海のどこかにネモ船長がいたとしても私は驚きません。むしろいてほしいとさえ思います。その正体が地上と縁を絶った天才科学者でも海に沈んだ古代文明の生き残りでもそれこそロマンです。ただのくだらない妄想だと一蹴してしまうのは簡単ですがロマンにこだわる生き方もありだと思います。ヴェルヌの現実の小説の中の理想でかなり苦悩していたことがわかりましたが、技術が発展しても人間の本質は変わっていないんだと感じました。

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